縄文時代に憧れることがあります。
人類史を遡ってみると争いばかりだからだと思います。
日本でも縄文時代まで遡ると平和な時間少し長く続きます。
1万年以上続いた平和な時代・・・。奇跡的に思えてきます。
個人間での争いが無かったわけではないようですが、一万年単位で大きな集団同士での争いが無かった時代。
平和な時代いいなぁ・・・。
でも学校の授業で習う縄文時代は、文化の低い原始的な時代のように習った覚えがあります。
あんなに魅力的な縄文式土器や土偶があるのに、本当なの?
「日本書紀」にも東の蝦夷(えみし)を蔑み、狩猟民の文化を根底から否定している箇所があります。狩猟民を悪者にせねばならない事情があったのでしょうか・・・。
狩猟民の縄文人たちが朝鮮半島南部の人たちと交流を持ち、稲作を取り込み、徐々に貧富の差が生まれ、大きな争いが生まれ、1万年も続いた平和な時代は終わりを告げます。
ですが貧富の差だけが、争いを生む原因だったのか疑問に感じます。
貧富の差はもちろん争いの大きな原因だとは思います。
ですが私たちと生きる時代こそ違いますが同じ人間として考えると、それまでは、「今」という時間を狩猟で生きてきた人々が、稲作栽培を取り入れることにより、栽培・収穫・保存とずっと先の「未来」のことまで考えなければならず、現代人のようにストレスを抱え何か目に見えない歯車が狂ってきたのではないかとも考えてしまいます。
未来という時間観念が存在しないアフリカの狩猟民族

ウガンダのマケレレ大学とドイツのハムブルク大学でジョン・ムビティ氏がキリスト教もイスラム教も、まだ深く浸透していなかった頃のアフリカ社会の伝統観念と慣習を講義し、その内容をまとめた「アフリカの宗教と哲学」という本があります。
その中に時間に関する、とても面白い記述があります。
伝統に生きるアフリカ人にとって時間は、すでに起こったこと、いま起こりつつあること、まさに起ころうとすることから成っている。
起こらなかったこととすぐに起こりそうにもないことは「非時間」の次元に入る。確実に起こりそうなこと、自然現象のリズムにのった出来事は不可避または可能な時間の次元に属する。
もっとも注目に価するのは、時間が長い過去と現在という二領域に分けられ、事実上未来が存在しないことである。
ヨーロッパ人の時間観念はあいまい糢糊とした過去、現在、無限の未来から成る直線的なものだが、アフリカ人になじみない考え方である。
未来の事柄はまだ起こっていないから、認識の対象になり得ない。それゆえ時間の構成要素に数えられないのである。
未来は時間として存在しない。
確実に起こると判っているか、自然のリズムに乗った事柄は可能性を備えた時間に入れられるが、現実の時間とは区別される。
現に起こっている事柄も、ひとたび起こってしまえばもはや現在から過去へと所属を変える。
現実の時間とは現在と過去なのである。
それは前進せず後退するもので、人々は未来を思わず、現に起こった事柄を考える。
〜アフリカの宗教と哲学 ジョン・s・ムビティ著 大森元吉訳〜
日本の縄文人とアフリカの狩猟民族では、生活環境が違うため、同じような感覚だったかは分かりませんが、共に独自の文化が続いてきた狩猟民族と考えると、近い考えがあったのではないかと思います。
そもそも人間も地球で暮らす、生物の一種ですから、自然のリズムに逆らった未来を考えること自体おかしな事なのかもしれません。それは地球環境への負荷だけでなく、自然の摂理から離れた矛盾が人体にも様々なストレスや悪影響を与えているのではないでしょうか。
未来を考えることは、私たちが発展していくうえで、とても大切だと思いますが、自然のリズムから大きく離れた未来を考える行為は、個人にストレスを与え、やがては人類全体を狂わしていくようにも感じます。
時には、あまり先のことばかり考えず、幸せを感じながら、いま現在を過ごすことも重要なのではないでしょうか。
未来という時間の観念がなかった故に、縄文時代は長く続いたのかもしれませんね。