「世界文化遺産」三保の松原から富士山を楽しむ



世界文化遺産/ 三保の松原

平安時代から人々に愛され続ける、静岡県内、三保半島の三保の松原(みほのまつばら)。その美しさから、日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)。そして日本新三景(大沼、三保の松原、耶馬渓)の一つにも選ばれる景勝地です。

2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉-」の名称で世界文化遺産にも選ばれました。

自然遺産ではなく、世界文化遺産への登録というところが興味深いですね。

万葉集でも詠われた三保の松原

「盧原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし」

(盧原の清見の崎の三保の浦 その雄大な海原を見ていると 清々しい気持ちになり 何の物思いもないことだ)

708年 上野守(現在の群馬県の国司)に任命された田口益人が赴任の途中、駿河美保の浦でよんだものです。盧原は現在の静岡市の一部(以前は静岡県庵原(いはら)群)とされています。作者も遠い地に赴任するにあたり、後ろ髪を引かれる思いがあったのでしょうが、力強い松原と穏やかな海、富士山の雄大な景色を見て、後ろ向きな思いも消えたようです。

三保の松原の風景が、昔から人々に勇気と癒しを与えてきた事がうかがえます。

三保の松原 に伝わる「羽衣伝説」とは

羽衣の松(三代目)

「羽衣伝説」は全国各地にありますが、三保の松原の「羽衣伝説」が有名なのではないでしょうか。

昔、漁師の白龍(ハクリョウ)が、釣りをしようと三保の松原に行ったところ、美しい羽衣が松にかかっているではありませんか。

その羽衣の魅せられて、持ち帰ろうとしたところ、木陰で天女に出会いました。

羽衣がないと天に帰れないので、返して下さいと、天女は頼みました。

白龍は天女の悲嘆にくれた姿を見て、天人の舞を見せてくれることを条件に、羽衣を返すことにしました。

すると天女は優雅に舞ながらふわりと天に昇り、愛鷹山をすぎ富士の上に消えて行きました。

「羽衣伝説」(三保の松原)

三保の松原から富士山をのぞむと、富士山の右側に愛鷹山が見えます。富士山は、非常に高いため天界にも近いと考えられていたのではないでしょうか。

御穂神社の御神体である「羽衣の松」ですが、宝永4年の富士山の噴火(宝永大噴火)で初代の羽衣の松は海に沈んだと伝えられているそうです。2010年には二代目の羽衣の松の立ち枯れが進み、現在の羽衣の松は三代目となっています。

「芸術の源泉」浮世絵にみる三保の松原

歌川広重 冨士三十六景「駿河美保之松原」

「冨士三十六景」は北斎の「冨嶽三十六景」に対抗して、歌川広重が描いたと言われています。中でも、雄大にそびえる富士山と、美しい松原が手前に描かれた「駿河美保之松原」は傑作と言われています。

「信仰の対象」三保の松原と富士山

富士山本宮浅間大社蔵 「絹本箸色富士曼荼羅図

昔から、多くの信仰の対象となってきた富士山。平安時代以降には、修験者により、一般人にも富士山信仰が広められ、富士山を登拝する人が増えました。

江戸時代以降も「富士講」と呼ばれる信仰集団が増え、富士山への登拝が盛んに行われました。

富士山本宮浅間大社蔵 「絹本箸色富士曼荼羅図」

「絵解き」(絵を使って信仰を説明する事)としての「絹本箸色富士曼荼羅図」では、下部に描かれる中世の「三保の松原」から富士登山の景観が描かれています。

かつて静岡県は、「駿河国」(するがのくに)と呼ばれていました。同じ響きでインドネシア語にスルガ(surga)という単語があります。surgaには「天国・楽園・極楽」意味があり、この言葉は、古代インドのサンスクリット語が起源だと言われています。

もしかすると、6世紀に仏教が日本に伝わった際にサンスクリット語のsurga「天国・楽園・極楽」という言葉も、一緒に伝わったのかもしれません。そして昔の人々は、雄大な富士山、穏やかな海、そして温暖で肥沃なこの土地に、surga「天国・楽園・極楽」を描いたのではないでしょうか。

まとめ

三保の松原と富士山

やはり昔から多くの人々を魅了してきた「三保の松原」からのぞむ富士山はとても魅力的です。

ゆっくり海岸を歩くのも良いですし、天気が良い日には、レンタサイクルで三保半島を一周するのもお勧めです。

きっと人々が、三保の松原から富士山を眺め、その美しさと雄大さに感動した思いは、今も昔も変わらないのではないでしょうか。

住所 / 三保の松原 /静岡県静岡市清水区三保1338-45